こんにちは、
よしおです。
久し振りの投稿です。
さて、いま岡田誠三さんの著書『定年後』を読んでいます。
読むのが遅い僕は、毎日数ページずつ読んでいます。
まあ、5月中には読み終わるでしょう。
その時に改めてコメントします。
さて、この岡田誠三さんの『定年後』は、1975年(昭和50年)3月の中央公論社から刊行された本です。
岡田さんは、1913年生まれ、1994年に他界。
朝日新聞社の社会部記者をされていて、太平洋戦争中は、ニューギニアの南方作戦に記者として従軍し、その時の模様を題材に書いた『ニューギニア山岳戦』で直木賞を受賞しています。
1968年に55歳で朝日新聞社を定年退職され、その後文筆業中心の活動をされました。
定年葬と新仏
この本の中で、定年退職を定年葬。
定年退職者を新仏と呼ぶと書かれていて、隔世の感があります。
また当時の定年は55歳。
ちなみにサザエさんの父親波平さんは、定年まじかの設定で54歳ということです。
ちょび髭に見事なハゲ頭に髪の毛が1本。
いまの感覚から行くと70歳前後のイメージです。
でも、僕が1982年に新卒で入社した会社の会社説明書には、定年55歳と明記されていました。
さて、岡田さんが定年を迎える約1か月前に朝日新聞社 大阪総務部人事課長の名前で次のような通知が届いたそうです。
岡田誠三殿
貴殿は来る昭和43年3月8日付で定年となりますから念のためご通知申し上げます。
岡田さんは、これを”死亡予告”を受取ったと書いています。
当然岡田さんだけがそうなのではなく、当時の定年と言うのは、そんな感覚があったのかもしれません。
しかもわざわざ知らせるというのは、当時船場の商事会社で、本人も人事部もうっかりしていて定年から4ヵ月もそのまま働いていたというケースがあったそうです。
それで岡田さんの勤めていた朝日新聞社の大阪本部では、”念のため”通知をしていたとか。
またそれを受取った社員は、覚悟も出来たようです。
まとめ
岡田誠三著「定年後」を読んでいます。筆者は1913年(大正2年)生まれなので、僕の祖父の世代。朝日新聞社の記者を務められ太平洋戦争では、従軍記者としてニューギニアに渡り南方戦線を取材。それを題材で書いた「ニューギニア山岳戦」で直木賞を受賞しています。
1968年に朝日新聞社を定年退職。当時は55歳定年でした。
定年を定年葬、定年退職を新仏と表現するなど隔世の感があります。
しかし、嘱託の誘いに対して、嘱託に残るか、自立するかを動悸と発汗量で測って決めたのは笑えました。
つまり嘱託で働くことを考えると動悸が激しくなり、発汗量が増えたので自立して文筆業に専念したそうです。
僕も、再雇用2年目で辞めましたが、先のことを考えると嫌だなぁ、と思ったからです。
定年後 岡田誠三著
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ちなみにこの本、古本で入手するか、図書館で借りられると思います。(横浜市立図書館では所蔵)
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