定年後 老後と余生

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こんにちは、
よしおです。

現代でも、定年後退職して経済的に特に何もしなくても良い人がいます。

僕と同じ会社に勤めていた人にも何人かいます。

また身近なところでは、妻の父親が、定年というよりも早期退職で、58歳でその後一切働かなかったという人もいます。

しかし、定年後、働かないと決めた人も何もしない、ということはない、ということです。

まさに定年後の余生を送る時代は、遠い昔の話になったと思います。

僕が感じた定年後の老後や余生の言葉に感じる、もやもやなど書きたいと思います。

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定年後の余生とは

余生とは、活動期を終わった残りの人生のことをいいます。

静かに余生を送る、

余生を楽しむ、などいう言い回りがありますが、積極的に求めて得るものではないことはわかります。

黒澤明の傑作『生きる』では、定年間近の市役職の市民課の課長が、当時では、不治の病とされ自分が余命いくばくもないと知り、残された時間を住民から要望されている公園の建設に全力を尽くすのです。

しかし、これは余生とは言わない。なぜなら自分の意志で生きたから。
もし、この市民課の課長が、余命が幾ばくも無いこと知り、市役所を早期退職して残りの人生をなるがままに過ごせば余生というでしょう。

また、余生とは静かなもの、寂しいだけのものではありません。

僕が大学生の頃、70代前半で亡くなった祖父の生き方はまさに余生を楽しんでいたと思います。

僕は、祖父が働きに出ている姿を見たことがありません。僕が生まれた頃は、まだ50代の前半くらいだったと思いますが、近所の若者たちと将棋をしたり、囲碁を打ったり、スズムシを育てたりしていました。

特に驚いたのが、祖父はトノサマガエルを調教していたのです。
エサのミミズを取ってきて、庭の縁側に座って、空き缶を叩くと、どこからとなくトノサマガエルがやってくるのです。

そうしたら、「おう、よう来たなぁ」といいながら、トノサマガエルにミミズの投げるのです。

カエルたちは美味しそうにミミズを食べていました。

昭和40年代の話ですから、祖父は会社勤めをしていたと聞いていたので、すでに定年になって余生を楽しんでいたのでしょう。


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定年後の老後とは

さて、老後という言葉があります。余生とどう違うのでしょうか?
似ているようで、似て非なるものようにも思います。

ここでは、僕のイメージを記します。

老後とは、字の如く老いたのちのことです。
この老いたという意味は、年齢により引退したり、リタイアしたりという意味に取ります。

だから人によってその年齢が違います。

ただ、老いた後ですから、55歳で早期退職した人には、さすがに老後とはいいません。
せめて、前期高齢者となる65歳以降だと思います。

一方、余生は、年齢に関係なく、盛んに活動して生きた時が過ぎ、病気などで残りの人生も少ないという時にも使うものと思います。

余生は残りの人生、余命は残りの寿命という意味合いがあります。

だから余生は残りの期間があいまいなのので、余命とはある程度期間が限定できるものと僕は考えます。

正しくないけど、違ってもいないかな。。。

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最後に

今回は、言葉の意味合いに終始しましたが、そんなことよりも「老後」にしろ「余生」にしろ、受動的な意味合いが強いです。

だから、僕は可能な限り働き続けて、老後のない人生を送りたいと思っています。
年齢的には、老いたと言われても、働いいる人に老後とは言えないと思います。

老後のお金が不安、

老後の健康が不安、

老後に孤独になるのが不安

それなら、老後にならなければいいのです。

つまり働き続ければ、老後がない人生が送れるかもしれません。

しかし、一般には、働き続けるというとどうしても、やらされている、仕方なく、というネガティブなイメージが付いて回ります。

それなら、自分のやりたいことをやって稼ぐ生活をすればよいのです。

このブログでは、そんなことを考えながら実践して行こうと考えています。

昨日より今日が少しでも楽しく生きていければハッピーですね。

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